一、福島正則から水野勝成へ
天下分け目の戦いとして知られる「関が原合戦」により毛利輝元は、九カ国にまたがる領国の内七カ国を没収され、防・長二国三十六万石の大名として広島城を退去する。輝元に替わって、芸備二国を領したのが福島正則である。
慶長六(1602年3月に広島城へ入った正則は、領国一円にわたる検地の実施、税制の確立など近世的諸制度の整備・確立を進めていく。彼は芸備二国の領国支配のため三次城に尾閑石見を、神辺城へは福島丹波を、東城城へは長尾隼人を、三原城には嗣子の福島正之などを配して六カ所に出城を築き、それぞれ有力家臣で固めた。
芸備二国の領主として福島正則が治世したのは僅かに十八年である。元和三(1617)年春、長雨で太田川が洪水となり、城下は多大の災害に見舞われた。正則は城郭損壊の修復許可を得るため、再三にわたって幕府へ申請するが、なかなか許可がおりないため、結局将軍の許可を得ないまま修築を進めた。これが幕府に罪を問われることとなり、奥州津軽四万五千石に改易されることになった。
福島正則の改易に成功した幕府は、元和五(1619)年七月二十二日、水野勝成を備後へ転封させた。勝成は、海路西下し八月四日輌津に上陸し、ここで幕府派遣の上使五味金右衛門・大久保六右衛門・伊丹喜之助・松平右衛門などから、御前帳本高十万十二石六斗七升一合の領知引渡しを受けた。幕府はすでに「一国一城令」を出しており、西日本の外様大名の制圧に躍起になっていた。
勝成は入国早々領内をくまなく巡視し、新城の候補地を探した。その結果、品治郡桜山(現在の新市町)・沼隈郡蓑島(現在の箕島町)・深津郡野上村常興寺山(現在の丸之内)の三か所がまず選び出された。そしていろいろ検討の末、桜山は海陸の交通路から離れており至極不便であったためこれを除外した。蓑島は、当時孤島であり西国監視の立場から甚だ不都合であり幕府も難色を示した。当時は、年貢米を大坂へ回送するうえで、瀬戸内海航路は決定的な重要性をもっており、また、海陸ともに交通の要衝であることが求められたのである。野上村常興寺山は、山陽道に近く、しかも街道筋からはずれており、芦田川の川口を押さえた要害の地で、北は丘陵を背にして近くに平野が控えており、南は内海に臨む湿地であった。このような考えから結局常輿寺山に築城地が決定した。
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二、福山城の築城
元和元(1615)年の大坂夏の陣をもって大きな戦乱があとを絶ち、その後、250余 年間、徳川幕府の太平の世が続いた。
こうした世情が安定しかけた元和五(1619)年に、「西国の鎮衛」の任を負って大和郡山から備後福山の領主へと転封を命ぜられた水野勝成は、翌年に幕府の許可を得て新城築造に着手する。
家老中山将監重盛を惣奉行に重臣小場兵左衛門利之らを土工奉行に任じ、勝成自らも常興寺山麓の城北に仮寓して築造の指揮をとったと伝えられている。
そして大工・左官の棟梁として福井藤兵衛正次・渡辺長右衛門吉次・宇野信正(のちの和泉屋又右衛門)や和泉屋九郎兵衛らを京都から招き、鍛冶・金具師・石工・木挽等の職人を領内各地から集めたといわれている。
城郭の縄張りは、横手を自然の城堀とするとともに、のちに城下町を建設した常輿寺山南面を芦田川の氾濫から守るため、芦田川の水を城背の蓮池にため、この池の水を吉津川として海に流すことから始まった。
城郭は南面しており、東・南・西側に二重の掘をめぐらし、搦手(からめて)は常輿寺山の後方に位置する小丸山および松山を天然の防塁とし、吉津川に臨み、川を隔てた永徳寺山を北方の固めとした。
常輿寺山の最上段を本丸、北隅には五層六階の天守閣を、南側平坦地に城主の居館である伏見御殿を、西南隅には伏見櫓を配した。
本丸は四周に帯曲輪を配し、二重の石垣によって囲まれており、要所には二・三層の櫓が数多く設けられ、これらは渡櫓や練塀によって結んだ。
ついで常輿寺山麓の東・南・西側に外堀と内堀を二重に掘り、本丸・二之丸・三之丸の縄張りが進められたようである。
東南部には、外堀から海に通じる入川を浚渫し、ここには、藩府の御舟入が設けられており、藩船を繋船すると共に、その周囲は船奉行をはじめ、船頭・水主(かこ)の屋敷に当てられていた。
当時丘上にあった常輿寺は、神辺から移して城の鬼門守護にあてた胎蔵寺と合体させ、伏見櫓の南側にかつて続いていた支丘の「樫木谷」にあった惣堂八幡社(東の宮)を城下の「宮の小路」(延広町)に移した。
また、現在の備後護国神社のある山(松山)にあった若宮八幡(西の宮)も同じく城下の「大杉」(現霞町の西端)に移建した。
福山八幡宮に両社が移されたのは、四代藩主水野勝種時代であつた。
このようにして、城地は整えられ、本庄にあった明王院円光寺の住職宥将(ゆうしょう)に命じて地鎮祭が行われた。
その後、宥将は城下の神島町に明王院を建立してもらい、この明王院が草戸にある古刹常福寺と合併し、現在の明王院となつたのである。
縄張りがほぼ定まると城郭の普請が急がれた。石材は、近辺の古城に残る石垣を取り崩したり、福山湾沖の笠岡に浮ぶ北木島などの石切場から調達した。
城地は東・南・西の三方を削り、山頂を削平し、石垣を積み、内外二重の堀を掘り込み、これらの土砂は城下町の埋立てに使われた。
築城にあたっては領内の村々から多くの人々が駆り出されたことだろう。こうして元和六(1620)年のはじめに着手された城地の調整は工事を急いだ甲斐あって年末にはほぼ完成し、暮には城地普請大成の報告が幕府に出され、翌元和七(1621)年からは作事に移り、諸々の櫓建築に取りかかった。その結果、一年半後に完成をみたのである。
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三、西国の鎮衛福山城
元和八(1622)年八月十五日、勝成は正式に入城し城号を「鉄覆山朱雀院久松城」と命名している。そして、八月二十八日をもって最後の完成報告を勝成自身出府して将軍に報告したのである。鉄覆山は天守閣の背面を鉄板で覆って搦め手の防御としたのでこの名をつけたともいわれるが、敵を追う「敵追山」の意味を込めたものであった。敵が幾万押寄せようとも追い払うという意味である。また、山号の「朱雀院」は、中国の四神思想で南を守護する想像上の鳥であり、南に向いた城郭を意味する。最後の「久松城」は、松寿長久の意をこめて、城の武運長久を祈って名づけられたものとされている。
天守閣は、江戸時代城郭建築では戦国以来 建てられた最後の最も完成された姿で、優美で均整のとれた姿は武備一辺到のものでなく建築的にも名城であった。
城郭の最上段が本丸で、その北側が一段高く作られ天守閣が聳える。その南側が城主の居館であり、境は堅固な練塀で仕切られていた。
本丸内にはこの他にも、月見櫓・鏡櫓・伏見櫓・鐘櫓・湯殿など十四棟の建物と、四棟の門が配されていた。二之丸は、本丸の一段下の平坦地である。
大(追)手御門から筋鉄御門の間には西帯曲輪外側の石垣につながる一列の石垣が築かれており、本丸の石垣と合わせて都合三重とし、大手を一段と堅固なものとしていた。そして神辺一番櫓のほか鑓櫓・鉄砲櫓など十三の建物と東上り楯御門など八棟の建造物が配されていた。
三之丸は、内堀と外掘に挟まれた平地である。東側の東御門と北御門に挟まれた平地が御屋かた形であり、二代藩主水野勝俊の時に建築され、それ以降は藩主の居館となつた。当初は御上屋敷といっていたが、阿部氏二代藩主正福の時から御屋形と改称した。本丸内の伏見御殿は、勝成一代の居館であった。御屋形の北には、御用屋敷や馬場となっていた。
西と南側は家老屋敷である。西側の現在県立歴史博物館がある一体は勝成の隠居屋敷であったが、勝成卒去後に筆頭家老の居邸となった。貞享元(1684)年の絵図では、上田玄蕃直重の嫡男で水野姓を賜った筆頭家老水野玄蕃直次の屋敷となっている。松平時代は筆頭家老山田主水、阿部時代では城代家老佐原作右衛門の屋敷に当てられている。南側は水野時代には、中山外記・上田勘解由、三村右近が、阿部時代は下宮・内藤・高滝氏などの家老が居住している。
福山城は、西日本で最初に配置された十万石の譜代大名の城郭である。規模としては、三十万石に匹敵する78,000坪(257,400平方メートル)の名城であり、文字通り「西国の鎮衛」としての任務を負ったといえる。
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四、アスナロの城
作家井上靖の小説に『あすなろ物語』がある。「明日はヒノキになろう」と念願しても、軋遠に檜にはなれない。東北青森県あたりに自生る日本特産のヒノキ科の常緑喬木である。別名をヒバともいい、昔から建築用材として用いられている。淡紅を帯びた黄褐色の木で、芳香があり脂性が強く耐水湿性に富み、白蟻予防にも効果がある。福山城は、天守閣をはじめ櫓などの多くにこのアスナロを使っている。
福山城は、低い丘を利用した平山城に分類されているが、三の丸との比高差は僅かに十数mであり、平城と言ってもよい。本丸北部に一段高い天守曲輪をつくり、南には伏見御殿が建ち並び、入口は、南に筋鉄御門を正門とし、西に台所御門、西北に葉木御門の三門を配した。
二の丸は、本丸より一段低い帯曲輪で四周を囲み、南に正門の鉄御門を、西に西坂口御門と水ノ手御門(埋門)、北には御蔵口御門(長屋門)、東に東上り楯御門の五門を設けていた。
内堀は二の丸の西・南・東の三方を囲み、その外側に三の丸があり上級の侍屋敷となっていた。三の丸を囲む外堀も内堀同様に北側はなく、丘陵を切通した崖からなり石垣もなかった。三の丸は南に大手門、東に東御門と北御門、西に西御門を配し、それぞれ桝形を伴った櫓門形式の厳重なものであった。
天守閣は、外観五重で、内部は六階、一階は天守台に半ば埋もれた半地下となっていた。
また、天守南面には一重二階の付庇があり、東南角には二重三階の付櫓を設けて小天守を構成していた。福山城天守閣は、大小二つのちどりは櫓が連結した複合天守であり、各所に千鳥破風と軒唐破風で飾った優美な姿であった。天守の東・南・西の三面は自漆喰の塗籠で、窓には銅板が巻かれていた。北面は、摘め手の弱点を補うため総鉄板張りであった。最上階は高欄付きの廻嫁が回らされていた。内部の構造は天守建築では進化しており、柱はそれぞれ二階分ずつを通柱とし、中央部には二本の心柱を最上階まで通していた。最上階は西北隅に御調台と称した上段の間があり、四〜六階には床の間を付け、さらに当初は各階に天井が張られていたらしい。
さらに創建時は、第四重の屋根を檜皮茸とし、その他を瓦茸としていたと考えられる。風雨による腐朽を防ぐため、総瓦茸に改められたのは江戸中期頃である。また、最上階の廻縁は、板で囲ってあり斜めの跳ね上げ戸を付ける構造となっており、現在の再建天守とは違う。
福山城は櫓の多い城であった。三重櫓が七基、二重櫓が十六基あり、城郭で最も厳重な防備施設といえる多聞櫓(たもんやぐら)は、本丸と二の丸に配されて東南部を除いてほぼ四周を囲んでいた。
その総延長は二百九十一間余(570メートル)にも及んだ。三百聞近い多聞櫓(たもんやぐら)は全国の城郭でもまれな規模であって、十万石の大名の居城としては破格の巨城であった。
戦災前の天守閣(写真#2) |
五、城下町と上水道の敷設
城下町づくりにあたり、水野勝成が特に気を配ったことは土地が干拓地であり、飲料水 にこまることであった。そこで町割を行うと同時に、その町々に芦田川から分水して、清流を町中に引き、これを飲み水や漱ぎ用の水とした。
『宗休棟御出語』という勝成隠居後に書かれた記録には、「ある時勝成公が御城下の侍町をお通りなされた時、お駕寵の者が水道の上を通ったのを見て、この下には家中の侍たちの飲む水道があるのにどうしてその上を通ったのか。勿体ないことである。脇を通りなさいと言って、自ら水をいただかれた。それからは、左右の脇ばかりを通られるようになつた。」とあって、勝成の上水道に対する想いが知れる。
また、『福山領分御伝記』によれば、町人町にも上水道は暗渠敷設されていたことが記されている。
ところで、城下町の飲料水を主目的とする水道のなかで、福山上水道は、江戸神田上水(1590年)近江八幡水道(1607年)、赤穂水道(1616年)、中津水道(1620年)に次いで全国で五番目(1622年竣工)に敷設されたものである。福山城下町はその大部分が、海底に土砂が堆積して出来た沖積平野であるから、元来塩分の多い水で、飲料には不向きであった。
では、どのようにして勝成は城下に上水道を敷設したのだろうか。水源は芦田川の水であり、本庄村「艮の鼻」から分水して天神山と妙徳寺山の間を掘り切って流した。しかし、元和六年の大洪水で工事は一頓挫しその後、さらに上流の「高崎」に取入口を設け、芦田川と高屋川の合流地点から芦田川と平行した分流をつくり、本庄村「二股」で上井手と下井手に分け、さらに下井手を本庄の蓮池に導いたのである。そして蓮池(一般にどんどん池という)から、天神山と永徳寺山(現在の福山八幡宮のある丘陵)との間を流した。蓮池を貯水池として、ここから外掘へまた城下町へ導水したのである。
取水口は全部で四カ所あった。まず、蓮池のすぐ南から取水し、西町の武家屋敷から城の南側にまわり、大手門の前から神島町を通り、奈良屋町・医者町・大工町・蘭町・新町・福徳町の方へ延びるルートと、護国神社と城との間を掘り抜き現在の三蔵稲荷神社西北に取水扉門を築き、外掘北・東側に石敷暗渠を敷設して、城東の町人町へ配水するルート。やや遅れて出来た蓮池西側の松林寺北、つじやから取水して長者町筋へ給水するルート。残りひとつは、城北の古書津の妙政寺前に取水扉門をつくり、古書津町を石畳暗渠で東進し、吉津町は土管を埋設し、各寺院や民家に給水し、法真寺北側水路に放水したのである。これら四カ所の取水口から導水した卜水の幹線は、石敷から木管や卜管などの配管によって町人屋敷をめぐり、数十カ所の要所に井戸状の貰洞を設けていた。各家には、幹線から竹管で導水した。
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六、歴代の藩主
ここで、譜代大名である備後福山十万石歴 代領主の概略をたどってみよう。
初代福山藩祖水野勝成は、元和五(1619)年、大和国郡山(六万石)より入封以来、新城としての福山城郭および城下町の建設をおこない、地名を福山と定めた。ここに福山藩が名実ともに成立したことになる。その所領は、備後国七郡と備中国二郡に及び、のちに寛永三年相模国愛甲郡の内一〇〇〇石の加増をうけた。
水野家は、二代勝俊、三代勝貞、四代勝種、五代勝岑と続く。水野時代は、河川流域や海岸の干拓が積極的に行なわれ、とくに芦田川の中下流域の開発にカが注がれた。その結果、城下のある深津郡の石高は、入封から七十九年後の元禄十一(1698)年には約三倍に増加した。また蘭草(いぐさ)・木綿の栽培や、畳表・木綿織の生産も盛んで、塩の生産とともに、福山藩の主要な産物となった。
福山藩水野家は、元禄十一年五月五日に勝岑が僅か二歳で死去したことによって、嗣子なく福山水野家は断絶した。しかし、先祖の勲功によって、幕府は勝成の末子勝直の長男である勝長に水野の名跡を継がせ、能登国鹿島・鳳至・羽咋・珠洲四郡の内において一万石を与え、羽咋郡西谷に居住させる。元禄十三年 下総国に移され、同十六年までに八〇〇〇石加増され、一万八〇〇〇石を領し、下総国結城城主として、以後十一代勝寛が版籍奉還まで継承した。
水野家断絶によって、福山藩領は天領(幕府の領地)となり、代官支配が行われた。この間約三年間、三代官が入れ替わりに幕府より派遣され、三吉町の陣屋で執政が行われた。
幕府は水野家断絶の後処理として、岡山藩に命じて旧水野領を検地させる。その結果、表高十万石から実収十五万石と査定されたのである。したがって残り五万石(神石・甲奴・安那郡および備中国の一部)は幕府に没収されたのである。
続いて、元禄十三(1700)年正月十一目、出羽国山形十万石の松平(奥平)忠雅が福山十万石に転封を命ぜられた。松平氏は、わずか十年の治世後、宝永七(1710)年閏八月、伊勢国桑名に転封を命ぜられ、代わって下野国宇都宮城主(十万石)阿部正邦が福山藩の新領主として入封する。
阿部家は、以後、廃藩置県まで正福・正右・正倫・正精・正寧・正弘・正教・正方・正桓と十代続いた。阿部氏は代々、大坂城代、奏者番、寺社奉行、京都所司代、老中などの幕府の要職に就き、わけても七代藩主の正弘は、幕末の多事多難な政治状況下で、日米和親条約を締結した老中として全国的に有名である。
嘉永五(1852)年十二月、正弘は幕府から功を認められ、一万石の加増を受け、福山藩は十一万石となる。
一方、藩政は家老政治となり藩財政は常に逼迫し、これが貢租増徴につながり一揆を誘発した。なかでも天明一揆(天明六〜七年)は、惣百姓一揆(そうびゃくしょういっき)として名高い。教育面では、藩校弘道館をつくりのち、発展的に解消して誠之館を建設し内憂外患の危機的状況に対処し得る人材養成を図った。
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※文と絵は「福山の歴史」(発行:広島県立歴史博物館、福山城博物館)から転載しました。 |